2012.09.09 (Sun)
平清盛「わが都、福原」
いよいよ、清盛が出家をして神戸の福原に向かいます。
一方では源頼朝が伊豆で過ごしてる様子もありますので、2元中継ですな・・・あははは
番組のあらすじはNHKのHPからご覧ください⇒★
前回までの解説と新相関図はこちら⇒★
最初に書いたように、伊豆での源頼朝の話と、清盛の話は同時進行のように思いますが
実は随分と違う時期の話なんですね
清盛が出家して、福原へ行くのは1168年51歳の時の話なんです。
一方の頼朝は伊豆での暮らしについては、詳しい事は分かってなくて1180年からが
記録として残ってるようです。その1180年に打倒平氏の思いを書いたものは、奈良
国立博物館の「頼朝と重源」展で見れますよ・・・あれ、もう終わったかな?
今日は、その頼朝の伊豆での話しを纏めてみたいと思います。
頼朝が伊豆に流されたのが1160年で14歳の時、約20年伊豆で暮らした事になります。
その様子を図で表してみました・・・・ややこしくてスミマセン!

平家の伊豆の豪族、伊藤祐親(すけちか・峰竜太)の監視下に置かれます
その祐親が京都へ行った間に、娘の八重姫と恋仲になって千鶴丸が生まれます。
しかし、それを知った祐親は激怒して千鶴丸を殺害してしまい、同時に頼朝を暗殺
しようとするのです。
この時が、頼朝の2度目の危機だったんですね
それを知った頼朝は、必死で逃げて伊豆地方の豪族・北条時政に助けられるのです。
そしてその娘と結婚したのが、北条政子・・・後の頼朝の正室なんです。
ただこの話、伊藤祐親と北条時政・政子は事実ですが、中間の話は????
どうやって力を付けていったのか、実際の事は分からないようです。
話は戻って清盛です。
病気を克服して、元気になった清盛は出家して六波羅の館を重盛に任せ、自分は以前から
の夢だった日宋貿易に専念しようとします。
(この時が1168年ですから、頼朝はまだ大人しくしてて何も無かった時ですね)
そして、その場所は神戸の福原で、1180年まで約10年住み続けます。
近畿の地図をお借りしました。
九州の大宰府で貿易してた船を、瀬戸内海航路で出来るだけ近くまで持ってきて
小さな船に積み替えて、淀川を上って京の都まで運びたい・・・そう考えたのでしょう
その最適な場所が、山陽道も通ってて泊がある場所・・・・そう神戸が最適でした。

昔の川はセメントで固める訳もないですから、砂が入り込んで滞積し浅くなるんです。
だから、清盛の時代より前から京の都に送る時は、大輪田泊で小船に積み替えて淀川を
上っていったそうです。
その福原ですが、どんな形で今何が残ってるのか、と言われても残念ながら、殆ど何も残っていません。
発掘調査等で、ここに屋敷があったというのでその碑が出来てます。
ここは「雪見御所」と言って清盛山荘があったと推定されてる場所です。

発掘調査で、建物の方向や大きさが分かっています。
その直ぐ南側には、頼盛の別荘があり安徳天皇が居たとされる荒田神社があります。

ほんとはここで、その当時の建物なんかが御見せできたらいいのですが
あるのは神社や碑が殆どなのが残念でしかたないです。
余談になりますが
「平家にあらずんば、人にあらず」と言ったのは、清盛と思われてる方も
居られると思いますが、これを言ったのは時子の弟、時忠だったんです。
ドラマでもそんな感じが表現されてると思いますが、清盛に実績によって
昇格した人物で、清盛には大きな欠点でしたね
さあ、今日はどんな内容になりますか
参考になった人、ぽちっと押してね!
一方では源頼朝が伊豆で過ごしてる様子もありますので、2元中継ですな・・・あははは
番組のあらすじはNHKのHPからご覧ください⇒★
前回までの解説と新相関図はこちら⇒★
最初に書いたように、伊豆での源頼朝の話と、清盛の話は同時進行のように思いますが
実は随分と違う時期の話なんですね
清盛が出家して、福原へ行くのは1168年51歳の時の話なんです。
一方の頼朝は伊豆での暮らしについては、詳しい事は分かってなくて1180年からが
記録として残ってるようです。その1180年に打倒平氏の思いを書いたものは、奈良
国立博物館の「頼朝と重源」展で見れますよ・・・あれ、もう終わったかな?
今日は、その頼朝の伊豆での話しを纏めてみたいと思います。
頼朝が伊豆に流されたのが1160年で14歳の時、約20年伊豆で暮らした事になります。
その様子を図で表してみました・・・・ややこしくてスミマセン!

平家の伊豆の豪族、伊藤祐親(すけちか・峰竜太)の監視下に置かれます
その祐親が京都へ行った間に、娘の八重姫と恋仲になって千鶴丸が生まれます。
しかし、それを知った祐親は激怒して千鶴丸を殺害してしまい、同時に頼朝を暗殺
しようとするのです。
この時が、頼朝の2度目の危機だったんですね
それを知った頼朝は、必死で逃げて伊豆地方の豪族・北条時政に助けられるのです。
そしてその娘と結婚したのが、北条政子・・・後の頼朝の正室なんです。
ただこの話、伊藤祐親と北条時政・政子は事実ですが、中間の話は????
どうやって力を付けていったのか、実際の事は分からないようです。
話は戻って清盛です。
病気を克服して、元気になった清盛は出家して六波羅の館を重盛に任せ、自分は以前から
の夢だった日宋貿易に専念しようとします。
(この時が1168年ですから、頼朝はまだ大人しくしてて何も無かった時ですね)
そして、その場所は神戸の福原で、1180年まで約10年住み続けます。
近畿の地図をお借りしました。
九州の大宰府で貿易してた船を、瀬戸内海航路で出来るだけ近くまで持ってきて
小さな船に積み替えて、淀川を上って京の都まで運びたい・・・そう考えたのでしょう
その最適な場所が、山陽道も通ってて泊がある場所・・・・そう神戸が最適でした。

昔の川はセメントで固める訳もないですから、砂が入り込んで滞積し浅くなるんです。
だから、清盛の時代より前から京の都に送る時は、大輪田泊で小船に積み替えて淀川を
上っていったそうです。
その福原ですが、どんな形で今何が残ってるのか、と言われても残念ながら、殆ど何も残っていません。
発掘調査等で、ここに屋敷があったというのでその碑が出来てます。
ここは「雪見御所」と言って清盛山荘があったと推定されてる場所です。

発掘調査で、建物の方向や大きさが分かっています。
その直ぐ南側には、頼盛の別荘があり安徳天皇が居たとされる荒田神社があります。

ほんとはここで、その当時の建物なんかが御見せできたらいいのですが
あるのは神社や碑が殆どなのが残念でしかたないです。
余談になりますが
「平家にあらずんば、人にあらず」と言ったのは、清盛と思われてる方も
居られると思いますが、これを言ったのは時子の弟、時忠だったんです。
ドラマでもそんな感じが表現されてると思いますが、清盛に実績によって
昇格した人物で、清盛には大きな欠点でしたね
さあ、今日はどんな内容になりますか
参考になった人、ぽちっと押してね!

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